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忠臣蔵BLOG「城下町の永応寺」

 

「忠臣蔵BLOG」26回目は「城下町の永応寺」です。

 

昨日紹介した「随鴎寺」とは旧熊見川(今の加里屋川)のちょうど
対岸にあって、この寺も裏手が川に面していました。

 

城下町の中でも大きな本堂の屋根が目立つ寺で、開創が延徳2年
(1490)播磨六坊のひとつで、播磨の浄土真宗発祥の寺だそうです。

 

浅野家にゆかりがあって、大石内蔵助が寄進した、本丸の藩邸に
あったという喚鐘と書状が残されています。

 

「忠臣蔵・人物紹介」

 

今回は、間瀬孫九郎と間瀬久太夫です。

 

「間瀬孫九郎正辰」行年23歳

 

刃傷事件の時は、まだ部屋住みでしたが、親子で赤穂に駆けつけ
城中大評定に列席、義盟に加わり、ずっと内蔵助に従っています。

 

兵庫県の加東市に仮住まいして、播州や上方の同士と連絡を取り、
次の年、京都の円山会議にも親子で出席、仇討ちが決定しました。

 

そして、吉田沢右衛門、不破数右衛門と江戸に入り、父親らと同居
して、吉良邸を探っています。
討入りは大石主税らと屋外で警戒に当たり、得意の槍で戦いました。

 

泉岳寺に引き揚げ中のエピソードですが、子どもが孫九郎の手槍に
すがりつき、袖印を欲しがったので、ちぎって与えたそうです。
(袖印は、戦場で敵と味方を見分けるため付けた布製の札です)

 

「間瀬久太夫正明」行年63歳

 

久太夫は、大目付を務める、とても真面目で厳格な人でした。

 

開城の時は、代表で大石内蔵助、大野九郎兵衛、久太夫など
5人が、城明け渡しの処理に当たりました。

 

その後、息子と加東市の仮住まいに移り、翌年の京都円山会議
では、普段、控えめな久太夫が発言しています。

 

「堀部弥兵衛は80歳近いのに、一人ででも吉良を討とうとして
いる。自分も高齢で、若い人の様には働けないが、会議の結果
次第では、弥兵衛と共に行動したい」と内蔵助を促しました。

 

そして仇討ちが決定、代わりに江戸へ向かう大石主税のお供に
内蔵助から選ばれて同行、息子たちと同居しています。

 

討入りでは、内蔵助、原惣右衛門と司令部として活躍しました。

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