忠臣蔵BLOG「高瀬舟船着場跡」

「忠臣蔵BLOG」24回目は「高瀬舟船着場跡」です。
坂越の、千種川河川敷に残る船着場の跡です。
昔は高瀬舟が、川の上流と下流の町をつないで物資を運んで
いました。上流には塩田で作られた塩が、下流には年貢米や、
塩作りに欠かせない薪(たきぎ)などが運ばれていました。
江戸時代は、ここから下って行くと城下町まで通じていて
城下の熊見川には、いくつも船着場があったようです。
、
川を行き交う高瀬舟、ちょっと見てみたいですね。
「忠臣蔵・人物紹介」
今回は、間喜兵衛と間新六郎です。
間一家は、親子3人で討入っていますが、その内の2人です。
「間喜兵衛光延」行年69歳
父親が山鹿素行の高弟だったので、喜兵衛も父親から
兵学や儒学を学び、文武両道の人でした。
刃傷事件の時は、もう一人の息子と、ちょうど赤穂にいて
城中大評定にも参加、一貫して大石内蔵助に従っています。
討入りの2ヶ月前に江戸に入り、2人の息子と同居、医者と
名乗って吉良邸を探りました。
討入りは、喜兵衛と新六郎は裏門隊、十次郎は表門隊でした。
(親子は別々に討入ると決めていたそうです)
その時、短槍の柄に付けていた短冊は
「都鳥いざ言とはん武士の恥ある世とは知るや知らずや」
「間新六郎光風」行年24歳
幼い時に、喜兵衛の従兄弟の養子になりましたが、その養父と
折合が悪く、江戸の姉夫婦の家に身を寄せていました。
その時、刃傷事件が。仲間に加わりたいので、内蔵助に申し出、
父親からも頼んでもらい、赤穂に帰って義盟に参加しました。
新六郎で有名なのは、切腹の時、本当に腹を切った事です。
当時、切腹は形だけのもので、短刀を腹に当てようとした瞬間、
首を落とすのですが、新六郎は、座った途端に短刀を腹に突き
立て、七寸も切り裂いたそうです。
切腹後、義士たちは泉岳寺に埋葬されましたが、新六郎だけは
姉婿が引き取ったそうで、後に泉岳寺にも墓が建てられました。