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忠臣蔵BLOG「坂越大道」

 

「忠臣蔵BLOG」14回目は「坂越大道」です。

 

日本遺産「北前船寄港地」として栄えた、坂越のメイン通りで、
奥藤酒造の酒蔵や旧坂越浦会所など、当時の雰囲気を
残した家並みを見ることができます。

 

坂越大道は、千種川の高瀬舟船着場と坂越港をつなぐ道で、
当時は、この坂を越えて物資が行き交っていました。

 

中央は、旧奥藤銀行の建物で、今は観光案内所や、坂越に
関する展示をしている、坂越まち並み館になっています。

 

「忠臣蔵・人物紹介」

 

今回は、奥田貞右衛門と近松勘六です。

 

「奥田貞右衛門行高」行年26歳

 

義士、近松勘六の腹違いの弟で、同じく義士の奥田孫
太夫の娘婿に入り、奥田姓になりました。

 

代々医者の家系で、江戸に出てからは医者を名乗って
養父の孫太夫と同居し、吉良邸を探っています。

 

貞右衛門は仲のいい夫婦で、討入りの迫った12月8日に
生まれた息子がいましたが、14日がちょうど、お七夜、
「清十郎」と名づけて討入りへと向かいました。

 

清十郎は、その後、徳島の蜂須賀淡路守に召抱えられ、
父親の元の姓、仁尾を名乗っています。

 

「近松勘六行重」行年34歳

 

勘六は幼い頃に母親を亡くし、後妻の産んだ子供の一人が、
義士、奥田孫太夫の養子になった、貞右衛門でした。

 

刃傷事件の時は江戸にいましたが、赤穂に戻り義盟に参加。
大石内蔵助の命で、早水藤左衛門と高野山に登り、奥の院に、
浅野内匠頭供養の墓碑を建立しています。

 

討入りの時、山吉新八と激しい斬り合いになり、凍った雪で
足を滑らせて池に落ち負傷、これが有名な「清水一学」との
エピソードの元になったそうです。

 

勘六は、忠実な家来「甚三郎」がいて、討入り前に暇を出そう
としましたが「最後まで、お供させて下さい」と。

 

討入りに向かう時も、隠れて後について行き、吉良邸の門前で
成り行きを見守っていました。そして本懐を遂げ出てきた義士
たちに、餅や蜜柑を手渡してねぎらったという事です。

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