忠臣蔵BLOG「赤穂城跡・二ノ丸庭園」

「忠臣蔵BLOG」13回目は「赤穂城跡・二ノ丸庭園」です。
国の名勝に指定されている二之丸庭園は、旧赤穂上水道の水が
引かれていたそうで「錦帯池」と呼ばれる池は、船を浮かべて
一周できるようになっていました。
門を入った広い場所は、大石内蔵助の大叔父、大石頼母助良重の
屋敷が建っていた所で、江戸の儒学者・兵学者の「山鹿素行」が
赤穂に配流になっていた8年間、この一角に住んでいたことがあり
船遊びの歓待を受けたりしていたそうです。
「忠臣蔵・人物紹介」
今回は、礒貝十郎左衛門正久です。行年25歳
十郎左衛門は美少年で、舞や鼓が得意でした。
父親が、義士の堀部弥兵衛と親しく、その推挙で14歳の時に
浅野内匠頭の稚児小姓に取り立てられ、可愛がられました。
その後、物頭側用人にまで出世し「右に片岡、左に礒貝」と
まで言われています、屋敷も赤穂城内にあったんですよ。
内匠頭のお供で、江戸城の大手門前で、片岡源五右衛門たちと
主人を待っている時に、刃傷事件が起こりました。
内匠頭はその日の内に切腹「伝えて欲しい」と残した最後の
言葉は、源五右衛門と十郎左衛門へ向けてのものでした。
切腹した内匠頭の遺骸を引き取り、泉岳寺へ埋葬したのは、
十郎左衛門、源五衛門ら6人、墓の前で髻(もとどり)を切り
吉良上野介への復讐を誓いました。
討入りでは、堀部安兵衛らと屋内で奮戦、吉良家の小者に
ロウソクを出させて、暗い屋敷内で戦いやすくするという
機転を利かせ、大目付の仙石伯耆守に褒められています。
切腹後、残された、わずかな持ち物の中から、紫縮緬の袋に
入った、女物の琴の爪が一つ、出てきたという事です。