写真は「大高源五」の宅跡で、公園になっていました。
広い敷地なので、ここに何人かの藩士の屋敷が建って
いたんでしょうね。
城下町は、住宅地になっていますが、江戸時代の町割が
ほとんどそのままで、昔の地図を見ながら歩けそうです。
大高源五は、吉良上野介が間違いなく屋敷にいる日を
調べて、大石内蔵助に報告した人で、この情報を元に
12月14日の討入りが決定されました。
俳人でもあり、刃傷事件の4年前に、浅野内匠頭長矩の
参勤交代に同行して、江戸から東海道を通って、赤穂に
着くまでの俳諧紀行文学(奥の細道みたいなのですね)
「丁丑紀行」(ていちゅうきこう)を残しています。