忠臣蔵ウイーク2016

城下町散歩

福泉寺

寛文5(1665)年に開創された法華宗の寺院で、山号を長遠山と称する。境内には茅野和助の子猪之助の墓があるほか大石頼母助の書簡が伝えられている。
 なお、幕末の文久事件により藩政から退けられた村上真輔の次男河原駱之助が藩領外へ立ち退く途中、襲撃の企てがあることを知り福泉寺で自害しており、境内にはその墓がある。

高光寺

山号を法耀山と称する高光寺は、もと大津村にあって妙典寺と称していたが、寛永17(1640)年に現在地に移された日蓮宗の寺院である。明暦3(1657)年には浅野長直から本尊の寄進を受け、寛文2(1662)年には長直夫人の菩提寺となり、延宝2(1674)年にその法名高光院を用いて寺号を改めた。
寺には原惣右衛門が奉納した直筆の法華経8巻、大石内蔵助良雄画の大黒天画像、浅野家寄進の三十番神画像、鬼子母神十羅刹女画像のほか、義士の位牌などが残されている。

花岳寺

正保2(1645)年に浅野長直が父華嶽院と母台雲院の菩提寺として建立し、その法名から台雲山華嶽寺と称した。曹洞宗永平寺の末寺である。以後歴代赤穂藩主となる永井家、森家の菩提寺でもある。
境内には浅野・森家墓碑、赤穂義士47人の墓碑、義士宝物館、義士木造堂、大高源五の句碑などがあり、赤穂藩や義士関連資料が数多く保存されている。山門はもと城下町の西惣門であったものを明治6(1873)年に花岳寺21代仙珪和尚が購入移築したものである(市指定文化財)。また赤穂城の縄張を行った近藤正純の墓もある。

常清寺

慶安年間(1648~1655)に開創された真言宗の寺院で、山号は春日山と称する。もとは東性寺といったが浅野長直の3回忌の延宝3(1675)年に長直の法号をとって寺号とし常清寺と改名した。城下町の東北隅に位置し、東惣門の抑えとしての役割をもっていたという。寺には浅野家からの寺領寄進状が残されている。

大蓮寺

浄土宗の寺院で、山号を照満山と称する。もとは北方の山麓にあったと伝えられ、城下町が形作られるとともに加里屋に移された。加里屋最古の寺院である。特に浅野長友の夫人戒珠院の帰依を受け、境内には戒珠院の墓があるほか、大石内蔵助良雄の寄進と伝えられる稲荷神社と石灯籠がある。また、大川安碩、赤松蘭室、神吉東郭といった、幕末期の文人の墓が多くある。

萬福寺

真宗大谷派の寺院で、山号を大嶋山と称する。もと英賀(姫路市)に建立されていたが、那波大島(相生市)を経て天正年間(1573~1592)に加里屋に移った。

随鴎寺

元和2(1616)年に開創された臨済宗の寺院で、山号を江西山と称する。その開山の雲甫は不生禅を確立した盤珪の師である。かつて寺の裏は熊見川に面し、浅野時代には遠林寺とともに水軍の屯所としての役割も担っていた。
境内の墓地には義士の肉親や近藤源八の墓がある。

浄念寺

真宗本願寺派の寺院で、山号は等力山である。明応4(1495)年釈浄が開基した。かつて萬福寺前にあった小庵が、元禄15(1702)年に現在の場所に移ったという。

永應寺

延徳2(1490)年に開創された浄土真宗本願寺派の寺院で、「播磨六坊」のひとつに数えられ、山号は朝日山と称する。寺には浅野長矩の遺品として、大石内蔵助良雄から寄進された喚鐘とその際の書状が残されている。また墓地には、花岳寺の「忠義塚」の碑文選者で、享保12(1727)年に『播州赤穂郡志』を表した藤江忠廉の墓がある。

赤穂大石神社

赤穂城跡三之丸にあった大石内蔵助及び藤井又左衛門の屋敷跡に建てられた神社。大正元(1912)年に創建されたもので、祭神は赤穂義士47名及び茅野三平、浅野家3代、森家の先祖7代の武将。境内には義士宝物館があり、義士ゆかりの資料が展示公開されている。また義士木造館には浅野内匠頭長矩や大石内蔵助良雄をはじめとする義士の木像が展示されている。

息継ぎ井戸

元禄14年3月14日、赤穂藩主である主君・浅野内匠頭が江戸城で刃傷事件を起こしたことを大石内蔵助に知らせるべく、江戸にいた早水藤左衛門(当時37歳)と萱野三平(当時26歳)が早駕籠(はやかご )で赤穂に向かった。その際、大石邸のほど近くにある井戸で水を飲み、息を整えてから大石内蔵助に事件の第一報を伝えたといわれている。この時に、2人が立ち寄った井戸が、この息継ぎ井戸である。

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